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ガジェッター・ミニマリスト・足つぼ師・温泉ソムリエ。時々、非二元性

【非二元性】そうだったのか!「気づき」の3段階、ルパート・スパイラ

   

第1段階 私が気づきそのものであるとのことの理解

What am I? Who am I?
私は一体何者なのか?私は一体誰なのか?

これは自分の体験を探求してみようという気持ちがある人であれば、簡単に理解できることらしい。

対象となるモノがあって、それに対して気づいているのが本当の私

空があって、太陽が出ていて、虫が鳴いていて、僕の肩は少し凝っている・・・。

それらが全て対象となるモノで、気づいているのが「本当の私」。

これは確かに、少し時間をかければ理解できるよね。

第2段階 私、つまり気づきの性質が制限のない存在であるという理解

What is the nature of awareness?
時間の中に存在せず、現れたり消えたりもせず、生まれたり死ぬこともないことの理解。

「私、気づき」は自分の中にあって、肉体の制限があると思いがち。

しかし、彼の探求では、「私、気づき」は客観的な要素がないので時間的にも空間的にも制限がないと理解したらしい。

そして本質は「知」であるという発見、それは制限の感覚からの解放。

「死への恐れ」「欠乏感」からの解放。

つまり、第2段階の理解まで進むと、

「死への恐怖」を避けることや、「欠乏感」を満たすための行動がなくなる。

私という意識が完璧であり、何も必要がない、思考、肉体、世界から何も得る必要がない、と理解する。

うーん、そうだ。その通りだ。

いや、僕の活動のほとんどが究極的に「死」を避ける行動、「欠乏感」を満たすための行動になっている。

外から何かを得て、幸せになろうとしている。

僕はこの第2段階でさまよっているな・・・。

第3段階 第2段階での理解の上にどのように生きるか

体験の全てをどのように生きるか、それこそが人生のアート。

第2段階の理解まで進むと、もう戻れないよね。

そのまま、第2段階の理解を表現していくだけ。

今日たまたまYouTubeを見ていたら行き着いたルパート・スパイラさん。

この気づきの三段階というのは、マインド的なオイシサのある題目だが、僕自身が客観的・合理的にどの地点にでさまよっているのかが理解できた。

第2段階の「気づき」の性質の理解は、第1段階の「私=気づき」の理解と比べると深い(という表現しかできない・・・)。

私は気づき。それはわかる。

でも、肉体的な制限のある感じの気づきなのだ。

私個人の中での、肉体、思考を通しての理解という制限。

また、目が覚めているときには、体験が客体としてそこにあるが、

眠っているときには、そこに体験が「夢」として時折現れるぐらいで、ある意味「死」のようなものだと僕は思ってしまう。

目が、耳が、脳が休んでいるとき、それでも私、気づき、「知」はあるのだろうか。

目や耳の知覚する感覚器官より「知」はさらに大きく広がっているのだろうか。

・・・いや、第2段階止まりの僕にはまだ理解できない。

Rupart Spira (ルパート・スパイラ)
http://non-duality.rupertspira.com/home

追雑記

一日、過ごしてみて、

「知」、本当の私、意識、それらが絶対的な主体であるのであれば、客体としてそれを理解することができない。

これは、金正恩だろうが、トランプ大統領だろうが、ティム・クックだろうが、

全ての人の根源の部分で、同じ、ということか。

マインドによる分離があって、それは恐れと欠乏感から動き始めるという人類に普遍的に埋め込まれているものであれば、

僕たちが(僕が)恐れと欠乏感から以外のアートな世界を作り出すには、

第2段階の理解が必要だ。

エックハルトは言う、

「本当の私に一番近いのは『肉体』。『肉体』を感じていることで、『マインド』からは離れることができる」

つまりは「恐れ」と「欠乏」を防ぐために働いているマインドからの分離ができるということか。

しかし、僕は何度も瞑想して、中心に入ったかと思うと、また外に出て、あれこれ悩みだす。

これをも含めて、許すことが、本当の私とのつながりを取り戻すことなんだけど。

ルパートさんが言う、第2の理解は突然起きるものなのか、それともじわじわ理解するものなのか。

うーん。マインドちゃん。

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